人類の歴史を貫く『論語』一人語り (11) 実行
久しぶりの論語。
子曰、仁遠乎哉。我欲仁、斯仁至矣。(述而第七)
訳
先生は言われた。「仁は遠いところにあるものだろうか。いや、自分が仁を求めさえすれば、仁はたちまちここにやってくる」。
仁とは思いやり、人間愛などを包括した徳であり、仁者とはその徳を体現した人のこと。
仁の深遠なるを知り、到底そこに至ることなどできないと嘆く弟子に向かって孔子は言った。
「仁はそんなに遠くにあるものではない。お前たちの求める力が足りないだけのこと。強く求めれば仁の方からここにやってくる」と。
ここは私が受講している講座で前回学んだところ。
咀嚼してみよう。
正に孔子の言うところは正しい。
物事が成就しないのは、そのことに対する「熱意」「努力」が不足しているからに他ならない。
恋愛が成就しないのは「愛情」が足りないから。ただそれだけのこと。
その際、重要なのは「愛」「熱意」を向ける方向、すなわち方法・方策を誤らないことである。
スポーツや学問も同じ。いくら一生懸命頑張ってもそのやり方が間違っていれば、いつまで経っても上達は望めない。
これが世に言う「実践と理論」。
実践の伴わない理論は空論であり、理論の伴わない実践は無力である。
武術の世界でももっとも重要なのは「事理(業と理論)一致」なのである。
「仁」の定義再考。
前にも述べたとおり、儒学の「仁」はキリスト教の「愛」に等しい。
キリストは言う。神は人を差別しない。神を信じる者は等しくその愛を受けることができる。
論語にたびたび出てくる「天」の存在は、明らかに神と同等である。
しかし、儒学は宗教ではない。むしろ哲学である。
孔子よりやや遅れてギリシアではソクラテスが産婆術を説く。
そしてアリストテレスは徳を強調する。
洋の東西で時を同じくして人間が人間としての「生き方」を模索したのはどういうわけだろうか。
ギリシアには奴隷制度があり、支配者には哲学をする「暇」があった。
しかし、孔子の時代は世が栄枯盛衰する春秋時代。
この謎は永遠に解けないのだろうか。