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一景一話

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【一景一話】 ~心に残る景色との出合いと食の愉しみ~

君子は義に喩り、小人は利に喩る。

君子は正しい道かどうかで物事を判断し、小人は利益が得られるかどうかで物事を判断する。

君子は、学問もある人格者で、小人はまだまだこれから努力が必要な人。
君子は、物事を判断するときに、まずそれが正義にかなうかどうかを考えるが、小人はまず自分の利益になるかどうかを考える。
人の心は弱いので、つい目先の利益で物事を判断してしまう。

おい、小人、聞いてるか?

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(完)

by doitsuwine | 2017-02-12 17:32 | 人物 | Comments(2)
子、川の上に在りて曰わく、
逝者は斯くの如きかな。昼夜を舎かず。

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孔子が川の岸辺に立って言った。
「全ての物は絶えず前進を続けるのだな。昼も夜も止まることがない。」
昼も夜も、一瞬もとどまることなく流れ続けるこの川のように、
学問もまた、そうでなければならない。

生涯教育とは言うけれど、どれほどの人間がそれを実践しているだろうか。
学びを忘れた(棄てた)人間に夢も希望もない。
熱しやすく冷めやすい現代の日本人。
教育が間違ってはいないだろうか。




(完)

by doitsuwine | 2017-02-11 17:02 | 生活 | Comments(4)
「必要性は可能性の隣人である」
有名なピタゴラスの言葉。

日本人の多くが英語を話せないのは、必要性に迫られないから。
日常、必要ではないから可能性も消えてしまっている。

本当に必要なものは手に入れることができる。
強い希望は叶う。
強い夢は実現する。

孔子はこれを「三軍可奪帥也。匹夫不可奪志也。」と言った。
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早く日本人の多くがこの古代の名言に気付いて欲しい。





(完)
by doitsuwine | 2016-06-16 17:01 | 生活 | Comments(0)
「学は道の得否にあり」
松陰先生のお言葉(『講孟余話』)

松陰先生は言う。
「井戸は深く掘るか浅く掘るかが問題ではなく、その水の量が肝心である。同じように、学問は一生を捧げるべき対象ではあるが、学問に勤めた結果、道を得られたか否かが肝心であって、学問に勤めること自体は問題ではない」

学問の最終目標である「道」とは何か。
『論語』ではそれを「忠恕のことだけを意味する」と説いている。
この忠とは真心を尽くして誠実なこと、恕とは他人に対する思いやりのことである。

松陰先生の言う道は孔子の道そのものであった。

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柔道も剣道も空手道も合気道も茶道も華道もすべて一生をその修行に勤めなければ道など極めることはできない。





(完)
by doitsuwine | 2016-06-15 17:41 | 生活 | Comments(2)
計愈々違ひて志愈々堅し

密航に何度も失敗した松陰先生が自らを発憤させた言葉である。
計画が失敗するほど志は堅くなる。天がわれらを試しているのだ。何を憂えることがあろうか。

というのである。
すごい。
このプラス思考。
絶対に凹まないこの気概。
恐ろしいほどの実行力である。
私にとっての松陰先生の魅力はこの「志」に尽きるのである。

『論語』 巻第五 子罕第九の二五にこんな言葉がある。
子曰、三軍可奪也、匹夫不可奪志也。

子の曰わく、三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志しを奪うべからざるなり。
(先生がいわれた。「大軍でも、その総大将は奪い取ることができるが、一人の男でも、その志しを奪い取ることはできない。」)

死してもなお魂は生き続ける。
志はたとえ首を切っても奪うことはできない。
松陰先生の志は残された志士や妹たちに受け継がれ、やがて彼らが明治政府の重鎮となる。
公用車で別荘通いをするような下劣な政治家に志も何もあったものではない。

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松陰先生はおそらく論語のすべてを暗唱できたのだろう。
それは先生の言動から明らかである。





(完)
by doitsuwine | 2016-05-24 17:36 | 生活 | Comments(2)
本日は泰伯第八の十二を釈義。

子曰、三年學、不至於穀、不易得也

子曰わく、三年学びて穀に至らざるは、得やすからざるのみ。

先生がおっしゃった。長年学んでも任官して俸禄を得ようという考えをまるで起こさないような人は、得難いものだ。(誰も彼も、ちょっと学ぶとそれを元手に俸禄を得ようと考え出す。嘆かわしいことだ)

三年というのは私が今まで人生の一つのスパンとして考えてきた区切りの年数である。
要するにこの3年で何ができるか。
3年は短すぎず、長すぎず。
しかし、何かを行じ、結果を出すためにはやはり3年は必要である。

江戸千家流茶道の開祖川上不白は、 『不白筆記』 の中で、良師を選ぶことの重要性を強調している。
それによると、急いで師を選ぶより、たとえば三年先に師を選んで学ぶということより、その三年をかけて良師を求めよ、ということを力説している。中国の故事から来ているらしい。

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誰を師とするか、誰を友とするか、誰を嫁にするか、正に人生においてもっとも重要な選択である。




(完)
by doitsuwine | 2016-05-17 17:10 | 生活 | Comments(2)
本日は 『論語』 雍也第六の十二の釈義。

冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而癈、今女畫。

冉求曰わく、子の道を説ばざるに非ず。力足らざればなり。子曰わく、力足らざる者は中道にして癈す。今女は画れり。

冉求が言った。
「先生の教えを認めない訳ではありませんが、我ら凡人には難しすぎます。」
孔子は答えた。
「もしお前の能力が足りないというのであれば、お前はその道の半ばで力尽きるはずだ。しかしお前はまだ始めてすらいない。」

本日はこの「力」について考えてみたい。
自然界に存在する力は科学的には4つの力に集約されるという。
その4つの力とは「重力」「電磁力」「弱い力」「強い力」である。
これしかない。
他の力はすべてこの4つが関係している(風力など)。

しかし、人間はすごい。
人間の力は無限である。
生命力、持久力、体力、筋力、腕力、握力、脚力、視力、聴力など身体的なものから、
想像力、忍耐力、洞察力、思考力、判断力、表現力など主体的かつ精神的に作用する力までさまざまな力がある。

これらの力で人間は生きている。
すべての力は 「努力」 によって鍛えることができ、使うことができる。
孔子が言いたいのはここである。
毎日毎日、そして一生、これらの力を人間はどれだけ育て、消費できるのだろうか。
たくさん消費している人は良くも悪くも行動が活発で、それ故に成功も失敗も多く経験する。
それが人間を創りだしている源ではないのだろうか。

冉求は性格が消極的なため、孔子から見れば、未だに成功も失敗もしていなかったのだろう。
力尽きたときが人生の終わりなのである。

小生の居合の演武
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武術の演武には実にさまざまな力が要求される。




(完)
by doitsuwine | 2016-05-16 17:16 | 生活 | Comments(0)
松陰先生の生き様は、まさにこの論語の一文にある。

子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。

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※子曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。

志士は最後の武士道の実践者でもあった。

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自由を求める生き様が生き生きとしている。
しかしまた波乱に充ち満ちている。
だから幕末は歴史としてはもっともおもしろいのである。
松陰先生は革命家であると同時に日本国最大の愛国者でもあった。




(完)
by doitsuwine | 2016-05-15 17:45 | 生活 | Comments(2)
『論語』 為政第二の十二。

子曰、君子不器。
君子はある用途のために作られた器物と異なり、完全円満である。

昔から 「器量」 や 「度量」 あるいは単に「器」といった様々な言葉が使われている。

一方、子罕第九の七に、
牢曰、子云吾不試、故芸。

孔子は六芸に秀で、弓馬の術も一流だったが、それは生活のために身に付けたもので、君子というものは本来余り色々なことができない方が良い、と孔子は述べている。

両方の言を合わせると、一技一芸に偏るのは駄目であるが、多芸もまた駄目である。
と、矛盾した論を展開している。
こうしたことが論語には散見されるが、これは時と場合による、あるいは質問者(弟子)によって適宜に適当な答えを発しているからであり、孔子の説くところが解らないでもない。

つまり一つの型にはまり、応用がきかない人間は駄目であるが、逆に色々なことに手を出し過ぎると自らの身を滅ぼすので、人の前に立つ者は政治に専念しろ、と言っているのではなかろうか。

故に多芸の私は政治家には向かないということだ。
正にそのとおり。

居合の演武(doitsuwine)
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何でも受け入れられる器の大きい人間は立派であるが、人間はそれらを取捨選択することの方がもっと大切であると考える。



(完)
by doitsuwine | 2016-05-14 17:24 | 生活 | Comments(4)
『論語』に、
「子曰、温故而知新、可以為師矣。」
という一節がある。

先生がこうおっしゃった。過去の事柄を再考し、新しい事柄を知れば、他人を教える師となることができるだろう。

四字熟語「温故知新」の題材となった一文。
元々は、煮詰めて冷えたスープ(羹)を温めなおして美味しく飲むことから敷衍した言葉であったらしい。
「温」という字が使われている所以である。
古い教養を考え直して、新しく創造するものに工夫を加えよという説教である。

ここで孔子が言いたかったことは、「過去の知識を単純に詰め込むだけでは、人を指導する師にはなれない」ということであったらしい。

この教えは昨日の「学習」にもつながる。
すなわち、学問が世の中において真価を発するのは、学んだ者が「守・破・離」の過程を経ることにある。
「守」は先哲からの預かり物であるから、これは変えずにまた次代に伝えていかなければいけない。
「破」は守を実践していく過程において自分なりの解釈や悟りがなければならない。
「離」は守から離れ、独自の境地を確立しなければならない。

各個人に当てはめて、自問自答してみると、これもまた楽しからずや。

ハンガリーの美味しいスープが今年の夏もいただけるemoticon-0115-inlove.gif

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by doitsuwine | 2016-05-11 17:37 | 生活 | Comments(2)